受容
約半年前に開催した、個展「片心」。
書を通して、ご来場いただいた皆さんとやりとりもしながら、
日常のなかでほっとひと息、心を通わせる時間を作ることができました。
初めて、個展をチームで運営し、1から空間をデザインするなど
挑戦に溢れた個展でもありました。
今回は、半年経った今だからこそ、向き合えることを綴ろうと思います。
展示直前まで起こっていた葛藤や、自分自身の「片心」の未完の部分です。
破れた作品
個展「片心」の額作品「今、」。
よく見ると、作品の一部が・・・。
余白だけでなく、線の一部も、破れている。
これは、意図的な表現ではない。
表装作業のなかで、破れてしまった。破いてしまった。
十分に乾燥させないまま、強引に表装作業を進めてしまった結果だった。
それを直す、あるいは作り直す時間はなかった。
「今、」だけじゃない。
パネル作品においても、展示前日まで粘った作品もあったが、
そんな状態でミスが起こらないはずもなく、
無惨に破れてしまった作品がいくつもあった。
書を書いて、作品として仕立てるところまでをひとりで行う。
自分の強みであり、特に大事にしたい部分のひとつであった。
それが、個展の場で、できなかった。
「今、」だけは、なんとか展示した。
遠目から見れば、立派な額作品。
窓の外からみた「今、」に惹かれて来場くださる方もいらっしゃった。
近くで見ると、額のなかには、破れた「今、」。
「言われなければ気づかなかったよ」
「破れたことも含めての「今、」を表現してるんだよね」
「破れていた方が、人間味があって良いよ」
好意的に解釈してくださる方もたくさんいらっしゃり、
ありがたかった。あたたかかった。
でも、悔しかった。
そして、申し訳なかった。
「今、」の自分の現在地
「今、」は、個展「片心」のもうひとつのテーマでもある。


私たちは常に、今、を生きている。
心を動かした「今」は、もう2度と訪れない。
今のその先にどんな物語を描くのかは、人それぞれ違う。
今だけでなく、読点の先の未来を想像して、書いてみた作品。
この「今、」は、個展にお越しいただいた方が、作品の前で立ち止まり、
自分の今を見つめ直すような作品になっていた。
その大切であるはずの作品を、自分は展示が終わってから一度も、
見なかった。見られなかった。
きっと、
「今、」の自分から、逃げていた。
「今、」の自分を、受け入れられていなかった。
その表れだと思う。
反省しているうちに、後悔に変わり、
作品と向き合うことも、作品をつくることも
だんだんとこわくなってしまっていた。
書体・書風・作品の大きさ・形・過程。
そして、書作品として美しく見えるかどうか。
作品ができるまでに、自分のなかで決めてきたことがある。
でもいつしか、その決めた形に頼りすぎて、
それができない自分を受け入れられなくなっていた。
ようやく「今、」を半年ぶりに見返した。
悔しくて、悲しくて、涙が止まらなかった。
でも、同時に、少しだけ、すっきりした。
半年経った今だからこそ、受け止められた。思い出せた。
「今、」の自分を、少しだけ、可愛いやつだと思えるようになった。
昨年の記事のなかに、
自分の書の原点について語った記事がある。
書家 市川 雄大 「"純粋さ"と"愛着"が原点」
読み返してみると、自分は書作品を作るときの原点を
忘れてしまっていたのかもしれない。
書というものは、試行錯誤を重ね、味わい、楽しんだ過程が
そのまま字に、線に、表情として現れる。


現に、この「帯」という作品は、
個展を初めてチームで運営するというワクワクと
チームで過ごした時間の濃さ(繋がりは約10年前から…!)から来る安心感、
そして「片心」を届けたい家族を純粋に思い描けたからこそ、
出来上がった渾身の作品。
この「帯」が、展示のなかで1,2を争う人気作品となった。
きっと、純粋さと愛着が、観てくれた方に伝わったんだと思う。
一雫。流轉。心悸。片心。
直近の個展のタイトル。
すべて、その当時の書のテーマを表したつもりだったが、
今はどれも、ずっと付き合っていく書のテーマだと思っている。
一雫の墨から生まれる表現に想いを馳せ、
流轉の世の中で、自分の書で何ができるかを常に探求し、
心悸とともに人生を歩み、心を震わせながら、
片心を大切な人に伝え、繋げていく。
次に自分は書で表現したいことは何か。
きっと「受容すること」だと思う。
書作品をつくる過程で生まれる、偶然や必然。
自分自身の心の葛藤や揺らぎ、弱さ。
それらを完璧に、綺麗に、作品としてだけでなく、
ありのまま受け止めて、表現していくのが、本来の書の在り方なのかもしれない。
技術は引き続き追求しつつも、創作の過程で生まれた表現を
「今、」の自分のままを受容して、楽しんで、味わう感覚で、書に臨んでいきたい。



コメント